理由は、カレンの憲法上保証されているプライバシーの権利には治療拒否権も含まれていて、父親がその代理人となるからである。
隅点まで宗教が根づいている民族もあれば、わが国のように、日常生活においては宗教的な考え方や死生観はあまり見られず、死を意識するのは、身内の葬式のときだけという民族もある。
死への態度はこれらの宗教観、人生観におのずと左右される。
このことは、脳死、安楽死、尊厳死等の問題への対応に、顕著に表れている。
一九七五年、米国ニュージャージーで起こった"カレン事件″は、欧米社会において、死、特に安楽死、尊厳死についての議論を飛躍的に深める契機となった。
現在世界の国のなかで脳死を前提とした臓器移植が行われていないのは日本とイスラエルなど数ヵ国に限られるという。
このことは、日本において死が話題に上ることが日常的にほとんどなく、臓器移植という差し迫った問題に引きずられて、やっと最近議論が始まった。
この判決の根底にあるのは、人の死は心臓死ではなく脳死であるということであり、その後の米国における脳死=人の死を前提とした臓器移植の流れに弾みがつくこととなった。
現在欧米では脳死=人の死という考えが一般的であり、臓器移植が盛んに行われている。
ところが我が国ではやっと脳死についての論議が始まったばかりで、脳死=人の死を前提とした臓器移植は行われていない。
臓器移植が唯一の治療法である患者は、海外での治療にその活路を見いだすしかなく、臓器移植のために海外へ渡航する患者の姿が時折マスコ欧米、特にアメリカにおいては、宗教に基づく世界観がすべての議論の前提となっており、魂が旅立った後の肉体には意外と冷淡である。
したがって脳死と脳死体からの臓器移植が、人の命を救うヒューマニズムとして歓迎されてきたのは、そういう宗教的倫理観が背景にあるのであろう。
私個人の考えでは、そうではないと言わざるをえない。
ったばかりであることを示している。
先ほど触れた、国会における臓器移植法案などは、脳死を前提にしたものと、そうでないものの二つの対案が出された末、ケースによっては人の死を二つ認めるという異常な事態となっている。
この間、死について十分論議されたとは言いがたく、臓器移植のために、結論を出し急いでいるようにも見える。
人の死はどう考えても一つである。
我が国での死に対する議論の欠如と戸惑いを如実に表した典型例と言えよう。
それでは、今回の国会決議案に盛り込まれた欧米流の二元論的な死生観と、脳死=人の死を前提とした"臓器移植推進論″が無制限に支持されるべきものとしてよいのであろうしかし、彼ら欧米人とて死後の世界について無知である点では、我々日本人と大差ない。
ソクラテス流の"無知の知″という観点から言えば、「見たことがないからわからない」という態度の日本人のほうが、むしろ正直で好感が持てるような気がする。
古来より、わが日本における臨死の光景には通夜というものが不可欠であった。
いったん心臓が停止した後、息を吹き返すことがあってもいいように、一晩は茶毘に付さずに見守ろうという意味の慣習であり、その根底には死者への強い畏敬の念があるのである。
そのことは、二四時間遺体の焼却を禁じた現行法にも反映されている。
つまり、元来日本では心臓死よりずっと後に人の死というポイントを置いていたのである。
ところが医学が発達し、自発的に呼吸できない脳死と心臓死の間にタイムラグが生じてしまった。
さらにこの微妙な時間帯に摘出した臓器が臓器移植に最も適しているため、臓器移植を待ち望んでいる多くの患者の必要に迫られて、脳死=人の死という結論を出す必要が生じてしまったのである。
これは本来話の順序が逆である。
臓器移植自体は非常に有益な治療法であるということに異論はないが、それにはまず十分に議論を尽くしたうえで科学的にも、社会的、宗教的現時点では、脳死=人の死が妥当な結論である可能性が高いのは事実である。
しかし医学がさらに進んだ遥か未来に脳死から蘇生させることが可能にならないと誰が言えよう。
将来、人工脳幹などが発達し、「脳死そのものから帰還する」という、現在では突飛に思える治療法も、永遠に不可能とは言えないのである。
あらゆる可能性について十分な論議を尽くさず、欧米に追随して脳死=人の死と規定してしまうことは、安易すぎるのではないか。
今後さらに人の死とは何かをもう一度皆で見つめ直す必要があるのは確かなのである。
私にとってはやはり、死というものは結局のところ実際死んでみなければわからないものとしか、今の時点では言えそうもない。
脳死=人の死というコンセンサスが確立してから、臓器移植に話を進めるべきであろう。
臓器移植を待ち望んでいる患者=レシピエントと同じ程度に、臓器提供者=ドナーの人権は守られるべきであり、その意味でのヒューマニズムのバランスを欠いた論議の偏重は危険である。
宗教の説くトータル・バランス。
『なんだかわからないが何かありそうなもの』そんな死をそのままの形で生のなかに取り込み、与えられた生を一生懸命生き抜くきっかけとする態度こそ、現在私にとれる最善の方策なのである。
死というものを意識からシャットアウトせず、かといって生を乗っ取られることなく、死と上手につきあっていくことが望ましいといえる。
意識から死をシャットアウトしてしまうと、七三一部隊に代表される、生体実験を平気で行える唯物論的科学者になりかねず、反対に生を死に乗っ取られてしまえば、宗教の名の下に殺人をも犯してしまった某医師の二の舞になりかねない。
死というものが、死んでみなければわからないものであるならば、このような意識を持って死と上手につきあっていく態度こそ、人生における生と死の理想的なトータル・バランスなのではないかと私は考えている。
以上、トータルをバランスで考える方法が優れていることを、医療現場や日常生活を題エ材に述べてきたが、その考え方自体は何も目新しいことではない。
言葉自体は存在していなかったとしても、その考え方は幾人かの大宗教家が、すでにその教義のなかで述べている。
例を挙げて解説してみよう。
肥、イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。
すると立ちどころに、そのからだがまつすぐになり、そして神をたたえた。
古代ユダヤの指導者モーゼは、神との契約である十戒のなかで『安息日』を定め、ユダヤの民衆の心の拠り所たるユダヤ教の大事な訓戒となっていた。
時は流れ、律法家、及び・ハリサイ人たちは、十戒と安息日を絶対の徒として守ることを人々に強いた。
やがてイエス・キリストという偉大な宗教家が現れ、安息日にも病人を癒すということを行い、律法学者や.ハリサイ人たちを混乱させた。
「新約聖書」の『ルヵによる福音書』第一三章を引用してみよう。
胴、主はこれに答えて言われた。
「偽善者たちよ、あなたは誰でも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
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